アラスカンマラミュートの莱夢のものがたり「第34話 莱夢、乳腺腫瘍になる」です。

アラスカンマラミュート Prime Snow 〜莱夢といた日々〜

 第34話 莱夢、乳腺腫瘍になる 


 2004年7月3日のことだった。その日、莱夢は大好きなT動物病院にフィラリアの予防薬をいただきに行った。T動物病院では、体重測定のほかに必ず全身をチャックしてくださる。目、耳、口腔内、心音、爪、腹部、肛門、そして、乳房にしこりはないか・・・。いつものように肛門腺まで絞ってもらい、乳房のチェックをしているときだった。いつもは「はい、大丈夫ですよ」と笑顔で言ってくれる先生が、顔を曇らせながら「これ、いつからでしょう」と言った。莱夢の右下の乳首の横に、ごく小さなしこりがあるというのだ。手で触れてみると、皮膚の下の浅い箇所に、大豆粒くらいのクニュクニュしたしこりを感じた。少なくとも、前回のフィラリア予防薬をいただきに来たときにはなかったしこりだった。それが、莱夢の乳腺腫瘍発見の瞬間だった。

 莱夢はもうすぐ5歳になる。決して若くはないし、避妊しているわけではないので、こうした病気になる可能性は年々高くなっている。この腫瘍が急激に大きくなるのならば、当然摘出手術を受けなくてはならない。稀にこのまま消えてしまう場合もあるそうだ。でも、もしも悪性だったら、ほかに転移している可能性もある。私は不安でたまらなくなった。先生は少し様子を見るように言ってくれた。腫瘍部分は毎日触らず、3日に1度くらい確認すればいいとも教えてくれた。腫瘍部分を頻繁に指で触れていると、大きさの変化に気が付かない場合があるから・・・。明らかに大きくなっている場合は、早めの手術を勧められた。腫瘍が大きくなればなるほど、抉りとる部位が大きくなる。莱夢にかかる負担も大きくなるからだ。

 私は悩んだ。悪性か?それとも良性か?このまま消えていくのか?それとも大きくなるのか?悪性で次々と転移してしまったらどうしよう・・・。このまま様子を見ていて大丈夫なのだろうか?7月24日からは、莱夢と一緒に軽井沢旅行の予定だった。旅行先でもしも莱夢の容態が急変したら・・・。不安が尽きない。莱夢はそんな私を尻目に、ふだんと変わらず元気いっぱいだった。

 不安な気持ちを抱えて1週間経ち、腫瘍の大きさに変化がないことがわかった。この1週間で、私の意志は固まっていた。莱夢の体内に不安の種を残しておくよりも、小さなうちに取り除いてしまうほうがいいと思うようになった。T先生に相談すると、先生も早めに摘出するほうがよいと賛成してくれた。手術は7月16日、3連休前の金曜日に決まった。軽井沢旅行は、もちろんキャンセルとなった。

 7月16日手術当日。莱夢も北斗もいつもと変わらない朝を迎えたが、私はソワソワと落ち着かなかった。莱夢は全身麻酔で手術に臨む。彼女の身体にどれほどの負担がかかるのか、考えると心配でたまらなかった。午前10時に病院に連れて行き、まずは血液検査を行った。検査結果、とてもショッキングな事実が判明した。莱夢の腎臓の機能を示す数値があまり良くなかったのだ。腎臓で汚れをろ過する能力が低下していて、血液中に流れる汚れが多いらしい。ただし、正常値内にはギリギリ入っているので、今後十分にケアしていけば問題ないレベルだった。手術にも影響ない程度なので、予定通りに午後から手術することとなった。

アラスカンマラミュート 画像 午後12過ぎ、いよいよ莱夢の手術が始まった。私は莱夢の麻酔が効くまで、傍で付き添わせていただくことにした。莱夢は手術台の上にお座りし、いつもと違う雰囲気を感じながらも先生に「お手」などしながらニコニコしている。この笑顔、数時間後にはまた見られるよね?まずは前脚から麻酔を導入するための注射を打った。やがて莱夢は少しずつ朦朧としてきたのか、私に寄りかかるように体重を預け始めた。莱夢のぐったりした姿に、私は思わず涙ぐんでしまった。もしも、このまま莱夢が目を覚まさなかったら・・・。そんな気がして、心配と不安とで押しつぶされそうだった。先生がぐったりした莱夢をそっと手術台に横たえると、莱夢は抵抗なく寝そべってしまった。すぐに莱夢のマズルに、すっぽりとマスクが被せられた。麻酔が本格的に効き始めた。莱夢が麻酔から醒めたとき、傍にいてあげたい・・・。莱夢が麻酔から醒める前に、先生から携帯電話に連絡をいただく約束をして、私はいったん帰宅することにした。大丈夫。手術自体はほんの数十分で終わるし、その後に歯石まで取ってくれる余裕があるのだから、そんなに難しい手術ではない・・・。何よりも信頼するT先生の執刀だもの、莱夢は元気に私の元に戻ってくる。

 待っている時間はやたらに長かった。真っ黒な不安が、胸の中に墨みたいに流れ込み、重苦しくて息苦しかった。とても家でじっとしていられなかった私は、仕事を休んでくれた母と一緒に公園に行くことにした。この公園は動物病院にも近いので、連絡がきたらすぐに莱夢に会いに行ける。莱夢とよく遊びに来る公園だったので、元気に駆け回る莱夢の姿が思い出されて、かえって胸が苦しかった。何度も携帯電話を握りしめ、時間を見てはため息をついた。無事に進んでいるだろうか?大丈夫だろうか?午後1時20分頃、静寂を突いて携帯電話が鳴り響いた。来た!病院からだ!携帯の向こうから、「無事終わりましたよ。そろそろ目が覚めるので来てください」と、先生の明るい声が聞こえた。ああ、無事に終わったんだ。莱夢に会えるんだ・・・。

 手術室に入ると、莱夢はすでに床の上に座っていた。ただ、まだ朦朧としていて、私のことも母のこともわからないようだった。莱夢の目がしっとりと濡れていた。莱夢は痛くて泣いたのだろうか?これは涙ではなく、術中に瞳が乾かないように軟膏を塗ってもらっていたからだった。やがて、莱夢は立ち上がり、ふらふらと室内を歩き始めた。「莱夢、お母さんここだよ」と声をかけても、まるで私には関心を示さず、ただウロウロと歩き回る莱夢。莱夢はやがて床のニオイをかぎはじめ、ふいにT先生を見上げた。莱夢の表情が、ぱぁっと明るくなった。尻尾を軽く振りながら、「先生!」と嬉しそうに笑っている。T先生も莱夢の目線に膝を突いて「莱夢ちゃん」と頭をなでてくれた。私が「莱夢」と呼ぶと、すぐにわかったらしく、ゆっくりと笑いながら私の元に歩いてきてくれた。莱夢は麻酔から無事に覚醒してくれたのだった。

アラスカンマラミュート 画像 莱夢がすっかり目覚めたので、先生は摘出した腫瘍を見せながら手術の経緯を説明してくれた。手術はもちろん成功し、莱夢の状態が安定していたので、予定通りに歯石を除去してくれたそうだ。摘出した腫瘍は小梅の種くらいの大きさで、モヤモヤとした繊維状のものに覆われた肉片だった。そのまま大学病院に送り、検査してもらうことになった。はたして良性か悪性か・・・。まだ心配は尽きない。莱夢は意識がハッキリし、自分から車に飛び乗って帰路についた。術前と変わらない元気な姿に、私は安心して泣けてしまった。

 帰宅すると、北斗が駆け寄ってお出迎えしてくれた。莱夢の口のニオイをかぎ、不思議そうな表情をする北斗。歯石を取った際の薬品がにおうらしい。莱夢と北斗はお互いにニオイで確認しあうと、並んでリビングに走りこんだ。莱夢はお腹の毛を剃られて、なんだか涼しくて心地よさげだった。莱夢が傷口をなめてしまうといけないので、腹部を覆う洋服を着せることにした。莱夢は傷口を気にする様子もなく、ほとんど出血もしていない。夜はリビングに夜具を持ち込み、みんなで一緒に寝ることにした。北斗は莱夢を気遣ってぴったり寄り添い離れなかった。仲がよくってほほえましい。

 術後の経過はおおむね順調な莱夢だったが、あまり水を飲まないのが心配だった。尿検査の結果、脱水気味になっていることがわかった。氷を浮かべた冷たい水を口元まで持っていってやると、よく飲むようになった。目を離した隙に傷口をなめたらしく、少し赤くなることもあったが、莱夢の傷口は順調に回復していった。

 7月24日、腫瘍の検査結果が出た。結果は良性!よかった!転移の可能性もまったくなく、再発の可能性も低いそうだ。これでようやく、心から安心できた私だった。傷口の経過も順調で、7月25日に抜糸することができた。これからは日に日に傷口も目立たなくなるそうだ。

 心配だった腎臓機能の低下は、術前にたんぱく質(トリのささみジャーキー)を食べ過ぎたことによる一過性のものだとわかった。食欲にムラがある莱夢は、ドッグフードをほとんど食べずにジャーキーばかり食べていた時期が2週間ほど続いたのだった。それでも今後はフードをシニア向けに変え、たんぱく質を抑えた食事内容に切り替えることになった。

アラスカンマラミュート 画像 全身麻酔というリスクを負って、乳腺腫瘍の除去手術を受けた莱夢・・・。避妊すれば、こうした病気を防いだり、進行を遅らせる効果があるそうだ。莱夢の避妊は私にとって悩みのタネであり、簡単に決断できない大きな問題だった。莱夢が若く体力があるうちに避妊手術を受けさせるべきだとわかっている。でも、健康な莱夢に全身麻酔をかけ、臓器を取り除くことに抵抗を感じているのことも事実だった。また、この時期はまだどこかで莱夢の繁殖に対する淡い希望を持っていたことも事実だった。もしも莱夢が子宮蓄膿症などの生命にかかわる病気になったとき、もしも発見が遅れたとき、もしも莱夢が助からなかったとき、私は後悔しないだろうか?後悔しないわけない!でも、簡単に答えを出すこともできない・・・。

 乳腺腫瘍摘出手術から約1年半後の2006年2月、恐れていた病が翼を広げ、莱夢に襲いかかることを私はこの時点でまったく予期していなかった。